ミルクという”愛”と向き合うチーズ工房のお話【白糠酪恵舎】
釧路空港から車で約40分。国道392号線沿いの牧場が点在する自然豊かな中茶路地区に、町が誇るチーズ工房「白糠酪恵舎(しらぬか らくけいしゃ)」があります。ここで働く人々は、“食べた人を幸せにしたい”という想いを込めて、日々本気でチーズと向き合っています。そんな「酪恵舎」のチーズとは、一体どんなものなのでしょうか?代表取締役である井ノ口和良(いのくちかずよし)さんに、「酪恵舎」の創立からチーズに対する思い、そして今後の展望についてお話を伺いました。
北海道庁職員からチーズ職人へ。「酪恵舎」のはじまり
井ノ口:1990年代に酪農家の後継者たちが学ぶサークルがあり、当時私は北海道庁職員の農業改良普及員として参加していました。そのサークル内で、「チーズを作ってみよう」ということになりましたが、実際やってみると、良質な牛乳が必要であること、その良質な牛乳を生産するのは大変であること、そして、そもそも良質なチーズを作ること自体がとても大変であることが分かりました。
「これをひとりでやるのは無理」という答えが出たので、「それなら手分けをしよう」ということになりました。酪農家は良い生乳を絞り、私がチーズを作る。皆が出資して酪恵舎ができました。「食べる人を幸せにしよう」という考え方で、現在もその方針は変わることなく、日々チーズを作っています。
「北海道には乳製品を食べる文化が根付いていない」その問題に立ち向かう
井ノ口:意外に思うかもしれませんが、酪農王国である北海道で乳製品を食べる文化が根付いていないという問題があります。その原因は北海道酪農の歴史にあり、戦後、国が「構造農政」と言って、稲作一辺倒の日本の農業を、多様な作物や畜産物を育てられるようにしようという政策を打ったんです。酪農に関しては、北海道で牛乳を生産して、大手乳業メーカーを通して流通させ、東京で消費させるという図式を作りました。
つまり、この図式を作ったことで北海道が酪農王国になったわけです。北海道の牛乳は、「飲むものではなく売るもの」として始まっているため、地元の牛乳を地元の人が飲めないという状況が1990年代前半までずっと続いていました。その後は規制が緩和され、手作りのチーズなども作れるようになって、現在はたくさんのチーズ工房があります。
そういった背景もあり、地元で乳製品を食べてもらうには、チーズで郷土料理を作ろうと考えました。今となってはびっくりされるかもしれませんが、1990年代の北海道でモッツァレラチーズを売っているところはどこもなかったんです。それどころか、その当時モッツァレッラチーズが買えるのは、東京でも3箇所くらいしかなく、ナチュラルチーズといえば、ゴーダかカマンベールといった感じでした。
チーズ料理といって頭に浮かぶのは、ピザやパスタ、カルパッチョなどのイタリア料理ですよね。となると、ゴーダやカマンベールはちょっと違う。私たちが求めていたのは、食材としてのチーズだったので、イタリアのチーズを作ることにしました。
しかし、次にやって来た難題は、その当時の日本に、イタリアチーズを作るノウハウがないということでした。
イタリア修行で得たとても大切なこと
井ノ口:ということで、イタリアへ勉強をしに行くことが決まり、最初、ローマとフィレンツェのチーズ工房を見学しました。
日本に戻ってきて「さぁ作ってみよう」としたら、何もできない。学んだつもりになっていただけで、それは完全におのぼり観光だったわけです。何も見ていなかったし、何も身についていなかった。そのおかげで、「知識も技術もない人間が海外へ行って、ちょっと見たからって何にもならない」と気付き、日本でトレーニングして課題ができたらイタリアへ行き、その課題を解決したら日本へ戻るということを3回繰り返しました。
3度目は、イタリアのピエモンテ州で3か月間の修行を行ったのですが、ここでとても大きな収穫がありました。この町の若い人はイタリア語を話すのですが、年配の方は方言を使います。それがなかなか理解できず、英語も通じなければ「日本人は初めて見ます」みたいな人ばかりで、言葉が全く通じない。かなり苦労しました。
しかし、言葉が通じない分だけ五感で通じ合うことができ、イタリア人がチーズに対してどのように思っているのかを理解しました。チーズの作り方を学びに行ったはずが、実はもっと深い部分まで理解することができていたのです。そのため、イタリアのチーズを食べれば、どのように作ったのかも分かるし、ほぼ再現して作ることもできます。
「食べた人が幸せになるように」酪恵舎のチーズに込められたのはたくさんの“愛”
井ノ口:僕らがチーズ作りで最も重視していることは「ミルクを活かす」ということ。ミルクの本質は、お母さんの愛です。子牛は、お母さんのおっぱいからミルクを直接飲みますよね。それは、やさしくて強いもの。さほど味もなく刺激もなく、スーッと喉を通っていく。「また飲みたい」と、無意識に手が出るのがミルクの本質。そうでないと、子牛も飲まないし、飲まないと成長できないですよね。
そのやさしさと強さを、技術的に裏付けてチーズを作るというのが僕らの仕事です。そこで何より重要なのは“食べ物”を作っているということ。嗜好品でもなければ商品でもなく、安全で栄養があって、おいしくて買いやすいという、“食べ物”を作っているということなんです。
井ノ口:現在の日本の酪農は、本当に大変な状況に陥っています。だから、100gでも200gでも余分にチーズを食べてほしい。物価高の今、普段の生活で節約しているからこそ、「ああ、おいしい」「また食べたい」と思ってもらえるチーズを作らないといけないし、値段もできるだけ上げないようにしないといけないと思っています。
また、乳製品が持つ新たな力にも注目しています。それは、保健機能を高める可能性があるということ。話題になっているのは、ホエーからβラクトリンというペプチドができて、これが認知症の予防に効果があると言われており、このペプチド自体は青カビチーズに多く含まれているようです。また、血圧を下げるペプチドもあり、今後もミルクの本質を理解しながら、もっと研究してチーズに落とし込んでいきたいと考えています。
海に山、そして夜空の星。自然の美しさこそ白糠町の魅力
井ノ口:白糠町のいいところといえば、手つかずに近い自然でしょう。夜の星空もすごいですよ。普通に天の川が見えるんです。初めて見たとき、「雲が多いな、でも晴れているのにおかしいな」と思ったら、それが天の川でした。
あとは、鳥もとても多い。北海道のほかの地域よりも多いんじゃないでしょうか?クマゲラやアカゲラ(キツツキ)や、タンチョウなんかもいて、それらの餌となる虫も多い。つまり、それだけ自然に囲まれているということだと思います。海も山もあるし、羊もいてチーズもある。空港から近い環境でありながら、これだけの自然の中に飛び込めるというのは素晴らしい環境だと思います。